日々のまとめ

日々の出来事どもに対する処理が追いつかないので、ここで処理する。処理落ちしました(2017年2月10日現在)

自身の状態の記録をサボっていることと贅沢な悩みの吐露を手短に行う

 第1に、自身の状態の記録をサボっていることについて。単に小まめに記録できていないだけです。近頃だと目立ったことは、頭痛がハッキリと意識できるようになってきたことくらいです。あとは、少し頑張れるようになってきたこと。頑張る感覚というかコツというかが掴めてきたと言いますか。

 第2に、贅沢な悩みを吐露します。今参加しているとある集まり(宗教ではない)において自分が高く買われ過ぎているという感じがあります。僕はそういう人間じゃないというよりは、怠け過ぎていて鞭を振るって欲しい気持ちでおります。これは贅沢であり、また傲慢な悩みです。このように悩むには、「頑張れば自分はもっと結果を出せるのだ」という主張が暗黙にされている必要があるからです。
 それはそれとして、自分から一歩離れた視点から自分を眺めてみれば、大学を卒業してからそれなりに頑張っていると感じます。ただ、就職もせずフリーターをしてちゃらんぽらんするという覚悟に比してみると、それを実行しながら出せている結果は及第点の6割5分1厘というところでしょう。傲慢でもいいからもっと結果を出したいです。

自身の状態 第2回目 2018. 7/26-8/1

 投稿するのがやや遅れていてアカンですね。まあ2週間は超過しなかったってことで許してくださいな。

[総括]
 好いことの方が多く起こった!怖いことも言われたけど、体調は良好。読書会もこなした。自分の改善点も見えてきた。仕事をぱぱっとこなして後は修正していくのがよいのでそうできるようにしたい。しかし、ちょっと疲労していたのか目星とやらを体験した。立ち眩みのような感覚は無いのだが、視界のそこいらに虹色のヒビのような亀裂が走って、それらが動き始めるというものだった。とても綺麗だったので見れてよかったなと思う。
 あと、人生を振り返っていたら、自分は父親的な役回りをしてくれようとする人とは人間関係が上手くいかないことが自覚された。実父もそう、実母もそう、高校や大学のゼミの先生もそうだった。じゃあ逆にどんな人となら人間関係がうまくいくのかといえば、兄的な存在とは比較的上手くいっている気がする。中学の時の部活の先輩とか、浪人してた時の家庭教師の兄ちゃんとか、あと自分の弟とか、床屋の人とか、今付き合いのある某人とか。しかし、もし一度兄的な役回りの人を父親的な立場にしようとしてしまったならば、この幸福な関係は壊れてしまうだろう。
 兄を父にしてはならない。もし関係を変化させるとすれば、そうではない方向に変化させねばならない、このことを強く自覚した。総括終わり!

[気分]
 とある対象に「恐怖を覚える」(7/26 夕刻前)、「全てが嫌味や自分をマイナスに評価する発言に聞こえる」(7/29 昼頃)、ということがあった。たぶん自分は、大学を経てから自己肯定感がとても低い。何かしら強い衝撃を受けるとそれが顕わになりがち。とはいえ、このような過剰なほどの感情は一種の防御反応なのだろうから、むしろ、ここからより変になった時がきっと大変なんだろうな。29日にスコール的な雨(粒がデカくて3分でびしょ濡れになった、暖かかった)に見舞われた時には「楽しかった」(昼頃)し。まあ大丈夫だろう、うん。
 あとは、あんまり詳細に書かれてはいない。このことをどう解釈すべきだろうか?他の項目を見て考察してみる。

[起床と就寝]
 2度寝は減った(27, 30)。でもこれはお金を生け贄に捧げて連日スタバへ行ってたから。あまりよろしくない。図書館か家で作業できるようにしないとだ。ただ、スタバで作業しながら流し見ていたバーチャルユーチューバーの動画が今週の気持ちの安定をもたらしたのだと思う。一概に悪いとも言えない。これは幸福な出会いでもある。

[生活]
 今週は不可。もっと勉強せい勉強せい。人生を浪費しろ。贅沢に生きろ。。。って言いたくなっちゃう。とはいえそんなすぐにぱぱっと替われたら怪人百面相なので無理しなーい。生きてるだけで偉い!!!! ところで、三面相くらいだったら目指して生きてみてもいいかなって感じ。勉強モードは欲しいなあ。

[気分2]
 総合的に見てみると、自分の外との関係で落ち込んだり元気になったりしてる。あんまり詳細に書かなかったのは気分の上がり下がりで忙しかったからかな?来週の結果も合わせて注意してみる必要がありそう。こんなところで今回は終わり!

自身の状態 第1回目 2018. 7/19-7/25

 自分用に、自分の状態をここに記述していこうと思う。期間は1週間くらい毎に更新できたらいいな。ダラダラと書いちゃうから詳細までは書かないことにする。なお、項目は変動することもたぶんあり。

[総括]
 総合的に鬱々としていた期間だった。しかし、1日のうちで意識をはっきりと保って動ける時間が確保できていることは偉い。また、多くの美しい出来事に出会えた。鬱々としている期間は美しい出来事に注意が傾きやすい。生きていてよかったと言えるくらいに。その出来事の1つに水科葵さんを見つけたことがある。他人の歌が聴きたくて、「バーチャルユーチューバー 歌」で検索して出てきた動画のリストに動画が登録されていた。楽しそうに弾き語りをする姿に心打たれた。そこからトークもしている「水科葵のRPG」の動画に飛んでみたのだけれど、あのトークは予想外だった。楽しそうにしている人を見るのが割と本気で好きだ。

[気分]
 「動きたくなさ」(7/19 朝)、「疲れ」(7/20 朝)、「身体の動かしたくなさ」(7/22 朝)という記述あり。おそらく同じ感覚の表現だと思われる。毎日見られる「眠気」の報告と合わせると、「眠気」から脱け出すためのエネルギーが不足しているのではないか?仮にそうだとすると、ここ1ヶ月はサプリメントによってビタミンとミネラルを摂取しているので精神的なエネルギーが足りていないと考えるのが穏当であろう。今週出合った美しい出来事の数々に力を貰えれば、と思う(美しい出来事にこういうことを望むのは罪であるという感覚が強くある。)。

[起床と就寝]
 毎日2度寝をした。これは昔からなのだけど、目覚まし時計を仕掛けるとプレッシャーがかかるのか鳴る前に起きてしまうから珍しいことではない。でも、現状は時間に縛られることが無くなったと言っていい筈なのにプレッシャーを感じるというのは何でなんだろうか?
 一方、入眠はうまくいっている。頭に熱がこもる日もあるのだけれどそう酷くなってはいない。これはよい傾向。維持していきたい。

[生活]
 可もなく不可もなくといったところ。生活自体には面白みがない。しかし、自分で主催している哲学史通史会だけは格別に楽しい。むしろ、これだけで面白みの塊である。より深く学んでいくためにも語学の勉強も取り掛かり始めたい。

大学4回生の時から体調が悪い

 大学生時代よりもずっとましにはなりました。原因は人間関係からのストレスなので当たり前なのですが。
 さて、現状フリーターとして生きているわけですが、一人暮らししながらフリーターするって絶望的ですね。3年先すら想定できないです。実家も太くないので頼るわけにもいかず、大きな病気したら詰んじゃう状況(就職したらしたで溶け込めなくて詰むと思うので定職にしろフリーターにしろ大差は無いと思います)。両親は一体どうやって僕ら(3人の子を)を育てたんだ・・・?それ以前にこんなの少しばかし状況が好かったからって常に死にたくなって家族になろうどころじゃないと思うのですが・・・・・・僕の心が弱いのでしょうけれど。
 
 それはさて措いて、これで一応自由になったと思いきや、時間が無いです。深夜まで起きちゃって早く寝入ることが難しい。部屋も散らかる。何とかしないと。現状は、バイトから帰宅直後は夕食を済ませた後にめっちゃ疲れて眠くなり身体が重くなりはするのですが、洗濯物や歯磨きをサボるわけにもいかないので頑張って起きてしまう。なお、この間お布団の上です(10時30分~2時)。その後は眠気が薄まり頭が熱くなってくる。身体の自由も戻るので何とかやることをこなして再びお布団へ(2時~3時)。その後1時間の間になんとか寝入るのです。

 今やっている哲学史を通史しようという勉強会のレジュメ作成もいつもギリギリになってしまい申し訳なさで一杯です。なので改善を試みていこうと思います。とりあえず最低でも週1のペースで体調とかレジュメの進捗とかを改めてブログに記録していきます。体調の悪さと調和したい。

一昨日の夜明け前に燃え上がった思い

シモーヌ・ヴェイユナイチンゲールを尊敬している。この二人に共通しているのは、その思考の形。その形は、自分が今居る洞窟の真上の決して低くはない天井に穿たれた、外と中とを繋いでいる穴のよう。低くはないとは言っても、勿論山のように高いというわけでもない穴。当然、そこを通るには相当な労苦が求められることが容易に想像できる穴。

このように喩えることが許されるであろう彼女らの思考は、人間の認識とその認識が目指しうる真理とを最短の直線距離で結んでいる(ただし、先ほどの喩えのように、真理へ向かうための方向は、私たちの認識の真上にぽっかりと口を開いている)。

私たちは彼女らの思考の仕方に倣うことができる。何しろ、真っ直ぐ上に向かって進むだけなのだから。梯子を作るのに地上を這い回り、真上を眺めどれ程近づいたかを確認しながら、そこを目指せばよい。しかし、それがどれ程困難な行為であることか。このような、いつでもできる程度に単純な姿勢─「真上を向く」という姿勢─を維持するのは困難であり、労苦だ。

いつでも取り掛かれる、そして持続するのが辛い。ゆえにいつまでも取り掛からない。ということになってしまう。

だが、泣いても笑っても幸福でも悲惨でもそこに居るのは、思考する者すなわち「人間の認識」のみであり、私たちはこのまま真上に向かって進むことだけしかできない。したがって、認識の全ての状態は連続している。全ての状態は(「人間の認識」という)同様の実体がその姿形を徐々に変形させていった結果に過ぎない。泣いたり笑ったり幸福であったり悲惨であったりしながら進行する認識の変様、これだけがまことの意味で「成長」ないしは「前進」と呼ぶことができる出来事ではないか!

※無論「成長」や「前進」は、あらゆる意味で(たとえば理論的にも実践的にという意味で)有限である。ヴェイユは人間が有限であることをしばしば「悲劇(的)」の名でもって見つめているように見える。

親への手紙として書かれた文章

「身体を生かすこと」は、全ての人間(もしかしたら、加えて生物のいく種類か)が共有している生きることの基本であるところの型であるように思われる。

だから、「身体を生かすこと」は、人と人とが関わり、相手を思いやる時の、基盤でもあるかもしれない。どんなに自分とは異なっている相手でも、「身体を生かすこと」を中心に据えれば、まず間違えないはずである。

しかし、角度を別にしてこのことを考えてみれば、親しい間柄という角度では、思いやりが「身体を生かすこと」に終始することは、相手への無理解を(思いやりの言葉をかけている相手に対して、)告白していることになりやしないだろうか?

このように告白された無理解に対してどう態度をとるかというのは、難しい問題だ。この問題の難しさは、これが「情の問題」であるという点にある。第一に、「ああ、こんなに遠い世界観を持ってしまっても、まだ思いやってくれるのだな」という楽観的な感情が懐かれうる。この場合は特に問題はない。

だが、第二の場合は問題が発生しうる。「ああ、こんなに遠い世界観を持ってしまったということを理解してほしいのに。理解されるための取り組みも十分にやってきたつもりであったのに、まだ一欠片も理解されていないのだな」という悲観的な感情もまた懐かれうるからだ。

この、告白された無理解に対してどう態度をとるかという問題を「(感)情の問題」としてだけ見ていては、解決は気まぐれな偶然によるものでしかあり得ないだろう。したがって、また角度を変更して問題を眺める必要が生じる。

最も手早い解決は、「倫理的な問題」として問題を眺めることにあるだろう。ここで「倫理的な」と言うのは、「行為する誰もが、行為される誰も全員にとって最も善い結果になるであろう判断を考案する態度」のこととしておく。

「倫理的な」角度から見れば、互いの「感情」は、その根っ子のところでら互いを嫌いあっているわけではないであろう。なぜならば、感情を懐いてる当人らは、互いに、相手とより善く関わり合いたいという点で一致しているからだ。ならば、相互の関わり合いの中で発生する苦しみの感情は、全て、いずれは来たる和解のためであると感じることができるはずだ。

(話はやや逸れるが、ゆーみんの『春よ、来い』で歌われている「春」とは、いずれは来たる和解の比喩のことだと僕は解釈している。そしてそのような「春」は「目蓋 閉じれば そこ[=未来]に」というわけだ。ところで、あの歌はもう死んだ人か失恋相手に歌われているかのような情念を感じるのだが、僕の気のせいだろうか?)。

(他方、森田童子の『春爛漫』では、「春の遠さ」が 「春に 春よ 春は 春の」と言葉にならないものとして歌われている。より正確に言えば、もう、いま私が生きている世界の中には、「春に 春よ 春は 春の」に続いて口走ることのできるような「春らしいもの」が一切合切存在しないのである。だから、歌の終盤で、「哀しい夢 花吹雪 水の流れ」というそのままぷっつりと存在が切れていってしまうことを言葉にしてみたような比喩が並ぶのではないだろうか。この現実世界に「春」が存在しないからこそ、逆に、「春の死」をイメージさせるような言葉が、かつて「遠い過去」に存在した存在のおぼろげで定まらない輪郭として、「春」を辛うじてほんの僅かにだけ思い出させる(ここで思い出されるのは、「春」がもはやこの世に無いこと=「春の死」である)。『春爛漫』とは、かつて存在した「春」への鎮魂歌(レクイエム)なのではないか?)

話を戻そう。今や第三の角度が必要だ。それは、「感情」は何故生じるのだろうか?私たちは、何故この「感情」なるものに突き動かされ言動してしまうのであろうか?私は、このようにして「感情の哲学」へと興味を持った。そしてこのように自分の「感情」を昇華(あるいは「お焚き上げ」)することが、自分のような人間には必要なことのように感じられてならないのである。

(1)『星を追う子ども』の位置づけ

今年度の抱負を実現するためのメモです。電波のようにびびっと僕の中から僕に入ってきました。うろ覚えの記憶頼りでリサーチをまだ行っていないので批判や訂正等ありましたらありがたいです。どうかよろしくお願い致します。

以前に『星を追う子ども』は(新海作品の中では)見なくてもよい作品と言われたことにずっと違和感を覚えていて(その人の新海作品の感想に非常に感動しており、この考察の直接的な動機となっているくらいでとても喜ばしいからこそより強く違和を感じております)、僕には新海誠作品がどう見えているのか、そしてそれは何故なのか考察するための第一歩として「『星を追う子ども』の位置付け」を云々したいと思っています。ただし、前提が誤っている可能性がとても高いため、それを調べることから始めたく考えていましたが、備忘録兼批判をしていただける場として本ブログを思いつきました。

メモ

新海誠作品の中で「初邂逅」が描かれたのは『星を追う子ども』が初めてであり、「初邂逅」シーンはその後の作品である『言の葉の庭』、『君の名は。』においても繰り返し描かれている。さらに、「初邂逅」の相手が「死」に近い状態であることが共通している。『君の名は。』では、既に過去に亡くなってすらいる相手との「初邂逅」から物語が出発するのである。

以上の事情を踏まえるのであれば、「初邂逅」シーンは、新海誠作品の中で一定の意味を与えられて描かれていると言う仮説を立てることができる。

また、『君の名は。』においては、「初邂逅」が2回行われていることが注目に値する。1回目の「初邂逅」は既に過去に亡くなっている相手との「初邂逅」であり、2回目の「初邂逅」は実際に生きている三葉との「初邂逅」である(※作品内での出来事を時系列おいて見直してみると、実は2回目の「初邂逅」(滝は中学生で三葉は高校生)こそが第1回目の「初邂逅」である)。

後者の「初邂逅」は新海誠作品では初めて描かれた2回目の「初邂逅」シーンであり、この「初邂逅」が、物語のクライマックスにおける滝と三葉の「再開」における感動を飛躍的に高めているのである。滝と三葉の「再開」は、本来はあり得なかった2回目(作品内の時系列だと1回目)の「初邂逅」の成就であるという点が重要なことなのである。

ところで、それとは対照的に『星を追う子ども』では「再開」は達成され得ないものとされる。本作品のキャッチフレーズも「さよならを知る旅」であった。

「さよなら」とは何なのだろうか?『君の名は。』で描かれた「再開」を真に味わうためには「初邂逅」の考察が必要である。

本稿では、この考察の第一歩として『星を追う子ども』における「初邂逅」の分析と「さよなら」の意味を明らかにすることを試みたい。