日々のまとめ

日々の出来事どもに対する処理が追いつかないので、ここで処理する。処理落ちしました(2017年2月10日現在)

親への手紙として書かれた文章

「身体を生かすこと」は、全ての人間(もしかしたら、加えて生物のいく種類か)が共有している生きることの基本であるところの型であるように思われる。

だから、「身体を生かすこと」は、人と人とが関わり、相手を思いやる時の、基盤でもあるかもしれない。どんなに自分とは異なっている相手でも、「身体を生かすこと」を中心に据えれば、まず間違えないはずである。

しかし、角度を別にしてこのことを考えてみれば、親しい間柄という角度では、思いやりが「身体を生かすこと」に終始することは、相手への無理解を(思いやりの言葉をかけている相手に対して、)告白していることになりやしないだろうか?

このように告白された無理解に対してどう態度をとるかというのは、難しい問題だ。この問題の難しさは、これが「情の問題」であるという点にある。第一に、「ああ、こんなに遠い世界観を持ってしまっても、まだ思いやってくれるのだな」という楽観的な感情が懐かれうる。この場合は特に問題はない。

だが、第二の場合は問題が発生しうる。「ああ、こんなに遠い世界観を持ってしまったということを理解してほしいのに。理解されるための取り組みも十分にやってきたつもりであったのに、まだ一欠片も理解されていないのだな」という悲観的な感情もまた懐かれうるからだ。

この、告白された無理解に対してどう態度をとるかという問題を「(感)情の問題」としてだけ見ていては、解決は気まぐれな偶然によるものでしかあり得ないだろう。したがって、また角度を変更して問題を眺める必要が生じる。

最も手早い解決は、「倫理的な問題」として問題を眺めることにあるだろう。ここで「倫理的な」と言うのは、「行為する誰もが、行為される誰も全員にとって最も善い結果になるであろう判断を考案する態度」のこととしておく。

「倫理的な」角度から見れば、互いの「感情」は、その根っ子のところでら互いを嫌いあっているわけではないであろう。なぜならば、感情を懐いてる当人らは、互いに、相手とより善く関わり合いたいという点で一致しているからだ。ならば、相互の関わり合いの中で発生する苦しみの感情は、全て、いずれは来たる和解のためであると感じることができるはずだ。

(話はやや逸れるが、ゆーみんの『春よ、来い』で歌われている「春」とは、いずれは来たる和解の比喩のことだと僕は解釈している。そしてそのような「春」は「目蓋 閉じれば そこ[=未来]に」というわけだ。ところで、あの歌はもう死んだ人か失恋相手に歌われているかのような情念を感じるのだが、僕の気のせいだろうか?)。

(他方、森田童子の『春爛漫』では、「春の遠さ」が 「春に 春よ 春は 春の」と言葉にならないものとして歌われている。より正確に言えば、もう、いま私が生きている世界の中には、「春に 春よ 春は 春の」に続いて口走ることのできるような「春らしいもの」が一切合切存在しないのである。だから、歌の終盤で、「哀しい夢 花吹雪 水の流れ」というそのままぷっつりと存在が切れていってしまうことを言葉にしてみたような比喩が並ぶのではないだろうか。この現実世界に「春」が存在しないからこそ、逆に、「春の死」をイメージさせるような言葉が、かつて「遠い過去」に存在した存在のおぼろげで定まらない輪郭として、「春」を辛うじてほんの僅かにだけ思い出させる(ここで思い出されるのは、「春」がもはやこの世に無いこと=「春の死」である)。『春爛漫』とは、かつて存在した「春」への鎮魂歌(レクイエム)なのではないか?)

話を戻そう。今や第三の角度が必要だ。それは、「感情」は何故生じるのだろうか?私たちは、何故この「感情」なるものに突き動かされ言動してしまうのであろうか?私は、このようにして「感情の哲学」へと興味を持った。そしてこのように自分の「感情」を昇華(あるいは「お焚き上げ」)することが、自分のような人間には必要なことのように感じられてならないのである。