日々のまとめ

日々の出来事どもに対する処理が追いつかないので、ここで処理する。処理落ちしました(2017年2月10日現在)

『ヨブ記』を勝手に読む1

ここで「小さな」というのは、端的にヨブに劣る者という意味を込めている。「怨念」については前記事を参照。

「神を畏れる生き方が あなたの頼みではなかったのか。 完全な道を歩むことが あなたの希望ではなかったのか。」(ヨブ記 4.6)
ヨブの友人の一人であるエリファズによる、ヨブを説得する言葉である。同時にこれは、ヨブという人の篤き信仰を証言する言葉でもある。

「小さな」ヨブは、エリファズがしたような証言を受けることはないだろう。しかし、彼の中には小さいがヨブが居るのである。彼の怨念こそはヨブなのである。

「忘れないでください わたしの命は風にすぎないことを。 わたしの目は二度と幸いを見ないでしょう。 わたしを見ている目は、やがてわたしを見失い あなたが目を注がれてもわたしはもういないでしょう」(ヨブ記 7.7~7.8)

エリファズに対するヨブの応答の一部である。以降、7.21まで、自身が消失していくことが宣言される。これを、自身の怨念の声として聴くことが可能である。
私が、自身の善き友であるのならば、この声を聴くはずである。しかし、方向を奪われた声をどのようにして聴くことがてきようか。今更どのようにして、どこまでも、怨念はヴェイユの言うような「超自然的」な仕方で残ると考えてはならない。怨念は行き場を無くした実在である。怨念はおんねん。