日々のまとめ

日々の出来事どもに対する処理が追いつかないので、ここで処理する。処理落ちしました(2017年2月10日現在)

怨念がおんねん

たぶん、どこに居ても、多かれ少なかれ疎外感は抜けないのかなと思った。とにかく、今は、卒論をできる限りつくろうと思う。

身近な人とか、ネットの人とかと比較すると、自分が本当に苦しんでいるのかについて疑問だ。苦しみに自信をなくしてしまう。みんな何かしら症状が現れており、医者にかかり、診断を下されている。それを羨ましく思ってしまう。不謹慎にも。

こうでなければ苦しみではない、というのを正しいと受け入れてしまうと、それによって殺される行き場のない怨念がある。しかし、殺される限り、それが殺されである限り、行き場がないにしても、そこには怨念が生じる余地がある。

ここでもやはり同じ問いがある。行き場のない怨念はどこへ行けばよいのだろうか。

「生きなければならない」に先立ってあるような苦しみはない。言い換えれば、生活を優先しないで、どうやって苦しめるってんだ。鬱だろうが、神経症だろうが、みんな生活から出てくるもんだ。耐えきれなくて出てくるもんだ。、という前提である。

病むには、正当な理由がなければならず、その理由に当たるのが生活という具合である。

「生活ありき」という健康的な大前提に圧死させられてしまった者共の怨念は、どこへ行けばよいのだろうか。「生きること」に殺された生がある。方向を奪われた生がある。

大学一年生の頃に読んだアマルティア・センの本がある。センは、潜在的な選択の自由ではなく、現実に選択できる幅の広さを重要視する。例えば、可能性としては、君は今からスピノザ研究で博士号を取ることもできると言える(制度上、それを阻むものは何もないのだから、君が努力すればそれは手に入るのだ。資本主義的自由とは、このような、ありうる選択の自由だ)。

本当だろうか?それは、本当に実現が見込める可能性だろうか?言い換えれば、その可能性は「私の」生活に即しているだろうか?センは、資本主義的自由を批判する。

私は、センを読んだ自身の記憶を、「私の生活」と言ったとき、「生活」ではなく、「私の」を重要視する内容であると読む。

行き場のない怨念は、「私の」である。方向を奪われた「私の」。

疎外感は、怨念の強さに比例している。

追記(2018/3/11)健康であったり病んだりは、根本的には「超自然的」仕方で可能となっていると『重力と恩寵』を読んで思った。