日々のまとめ

日々の出来事どもに対する処理が追いつかないので、ここで処理する。処理落ちしました(2017年2月10日現在)

だらだらと書く

椅子と机がないと勉強するのに困ることに気付いた。大学四回生の夏休みのことだ。

そこで「常識的に予想できなかったのか」と正論を投げ付けられても、それは的を外しているのだけれど。中学3年から高校時代、それと浪人時代は机と椅子がどちらかと言えば嫌いになるような、悪い思い出が多かったし仕方がなかった。可能であっても、もう二度と生まれ直したくないと言っちゃうくらい。あの時の僕は、おそらくはヒステリーだったのでしょう。少なくとも、ヒステリー的であった。

ヒステリーは、心のダメージが身ぶり手振りで表現されてしまう病と(ざっくりと)言えるだろう(重要なこととして、ヒステリーになっている人は自身の心のダメージに無頓着になる。心のダメージが身ぶり手振りに置き換えられておもてに出てきているから)。あの頃の自分がとてもよく髪の毛を抜いていたのは、ヒステリー的な症状と言えなくもない。いや違う。髪を抜くことで多幸感を得ていたので、厳密にはヒステリーではないと考えなくてはならないのでは(素人にはどうしようもないが、一生気にしていくのかもしれない)。

しっかしまあ、あのままじゃどうしようもなかったし、ちゃっちゃっと診断受けとけばよかったなあというのが本音である。自分を含めて自身の理解者が誰も居ない現状はどうしようもないからだ。

長々と述べて何を吐き出したいのかと言えば、「どうしようもなく状況が理解されていない」場合、そこから「実践」は始まらないということ、「実践」とは「どうにかする行い」なのだということだ。半端な愛や気合いだけじゃどうにもならない。何を愛するのか、何に対して気合いを出すのかを洞察しないことには、それらはギャンブルと同じだ。何が掛け金となっているのかをきちんと洞察しようとしないでギャンブルをするのは馬鹿のすることである(ここから先は見透せない時には、人は馬鹿にならざるを得ないというのも大切なことだけど)。

僕は大馬鹿者だし、憧れを絶たれた残りかす、つまり愚か者でもあるからここで愚痴を叩くことしかできない。何を怨んだらよいのか分からない人間であることは難儀です。とはいえ、難儀であることも一つの実践です。この実践の効能は何も怨まなくて済むことです。「嗚呼、いと怨めしや」と呼吸するよりは駄文を吐き出しましょう。愚か者でありましょう。明晰な愚か者讃歌をぐちぐちと歌うのです。気を付けて!曖昧さは呪詛の声です。明晰に愚か者であることが大切なのです。

実は、この域にまで達すると、愛や気合いを、高度な実践として行うことが可能となるのです。

世間の人は、自分の視力に見切りを付けるのがとてもお上手なのだと思います。高度な実践をお手軽に実現することを、みんなはいつ身に付けたんだろう?曖昧さを、もうこれ以上明晰になれない地点としてわざと誤認する技術。僕も欲しかった。