日々のまとめ

日々の出来事どもに対する処理が追いつかないので、ここで処理する。処理落ちしました(2017年2月10日現在)

研究ができないゴミで大変申し訳ありません(実証研究が分からない。たすてけ)

どうしようもない(と感じられる)生活を送る。学という認識の仕方が輝いて見える。理由は、それがこの生活のどうしようもなさを肯定することと新たな景色を―それがどうしようもないものであったとしても―開示してくれるからだろう。
 水曜日に、S先生に「君は実証研究ができないんだから、別の仕方で書かなきゃね」と言われた。それは事実で、とてもショックだ。
 これまでの僕は、文章を通して他者理解を深めることを目指していた。哲学に惹かれた人間は、多かれ少なかれ、文章を通じた他者理解を称揚しているように見える。
 厳密に言えば、理解はあくまでも「文章の」理解にとどまって、他者そのものに届くことはない。だけれど、これまた文章化された理解は、文章として「他者へと」届くということを信じているのだろう。
 「文章」。私と他者たちとを繋ぐ、我々の関係を紡ぐこの不分明地帯。
 この不分明地帯の歩き方こそ、僕が会得したい技術だ。
 「文章」を通じた実証研究。真実を理解したいと宣言し(テーマ)、語の定義を立てて読みの方針を決める(仮説)。より確からしい読みが出て来ない限り、それは検証がなされたものとされる。
 ところで、実証研究は、他者の存在ではなく。その客観的な実在を前提するように僕には思われる。真実を理解したいと宣言するならば、当たらなければならないのは「文章」中の語の定義や読みの方針よりも、見て、触って、嗅いで、聞いて、舐めることのできる「物」なのだ。それがどのように見て、触って、嗅いで、聞いて、舐められているのかを明らかにすることが重要とされるのだ。つまり、重要なのは経験とそれを形づくる「物」だ。
 僕は、この実証研究にも魅力を感じ始めている。実証研究を行う場合は、「文章」に孕まれている「思考」は、一種の物であると見なされる。それは、同様に物である書き手の描いた物的軌跡の一部分として思い描かれる。すなわち、この軌跡全体を構成するパーツを綺麗に順番に並べていき、対象である物的軌跡を再構成することが実証研究なのだ。
 だから、実証研究にモザイク画は許されない。
 僕が探求したいのは、実証研究で描かれる一枚画の厚みの向こう側だ。そのために、実証研究を会得したい。隙間から垣間見える「物に在らざる世界」を垣間見たい。それは、物である他者と区別して、物でない他者に出会いたいということだ。
 とはいえ、物でない他者も「文章」として受肉する。僕は、その肉の隙間に肉に在らざる他者を垣間見るのである。
 勿論、「実はそれは、初めから「物」に他ならなかったんだ」、と言うことはできる。「垣間見る」のだから、物でない他者は物的に表象されてもいることが窺えるからだ。しかし、できるけれど、それは、「受肉」という過程を無視している。
 どういうことかと言うと、例えば、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」とよく言うけれど、この一句に表現されている思考を解釈するに際して、「幽霊」は、見られる前から「枯れ尾花」であったんだと言い切ってしまってよいものだろうか?言い換えれば、「幽霊」の存在は「枯れ尾花」の実在に尽きるのか?
 僕は、「幽霊」も「枯れ尾花」も、「文章」に孕まれていたんだ、と考えたい。それらは、物では無い仕方でその内に在った。そして、「受肉」を経ることで「物」として顕現することになったのだ。
 「物」は、「受肉」の過程を無視しては実在しない。つまり、「受肉」の神秘を度外視して「実はそれは「物」に他ならなかったんだ」とは言えない。
 それは、「物」に「なった」のだ。だから、存在は実在に尽きることはない。
 それは、物的世界ではない「どこか」から、「物」に「なる」という「受肉」の過程を経て到来したのだと考えねばならない。