日々のまとめ

日々の出来事どもに対する処理が追いつかないので、ここで処理する。処理落ちしました(2017年2月10日現在)

一昨日の夜明け前に燃え上がった思い

シモーヌ・ヴェイユナイチンゲールを尊敬している。この二人に共通しているのは、その思考の形。その形は、自分が今居る洞窟の真上の決して低くはない天井に穿たれた、外と中とを繋いでいる穴のよう。低くはないとは言っても、勿論山のように高いというわけでもない穴。当然、そこを通るには相当な労苦が求められることが容易に想像できる穴。

このように喩えることが許されるであろう彼女らの思考は、人間の認識とその認識が目指しうる真理とを最短の直線距離で結んでいる(ただし、先ほどの喩えのように、真理へ向かうための方向は、私たちの認識の真上にぽっかりと口を開いている)。

私たちは彼女らの思考の仕方に倣うことができる。何しろ、真っ直ぐ上に向かって進むだけなのだから。梯子を作るのに地上を這い回り、真上を眺めどれ程近づいたかを確認しながら、そこを目指せばよい。しかし、それがどれ程困難な行為であることか。このような、いつでもできる程度に単純な姿勢─「真上を向く」という姿勢─を維持するのは困難であり、労苦だ。

いつでも取り掛かれる、そして持続するのが辛い。ゆえにいつまでも取り掛からない。ということになってしまう。

だが、泣いても笑っても幸福でも悲惨でもそこに居るのは、思考する者すなわち「人間の認識」のみであり、私たちはこのまま真上に向かって進むことだけしかできない。したがって、認識の全ての状態は連続している。全ての状態は(「人間の認識」という)同様の実体がその姿形を徐々に変形させていった結果に過ぎない。泣いたり笑ったり幸福であったり悲惨であったりしながら進行する認識の変様、これだけがまことの意味で「成長」ないしは「前進」と呼ぶことができる出来事ではないか!

※無論「成長」や「前進」は、あらゆる意味で(たとえば理論的にも実践的にという意味で)有限である。ヴェイユは人間が有限であることをしばしば「悲劇(的)」の名でもって見つめているように見える。