日々のまとめ

日々の出来事どもに対する処理が追いつかないので、ここで処理する。処理落ちしました(2017年2月10日現在)

(1)『星を追う子ども』の位置づけ

今年度の抱負を実現するためのメモです。電波のようにびびっと僕の中から僕に入ってきました。うろ覚えの記憶頼りでリサーチをまだ行っていないので批判や訂正等ありましたらありがたいです。どうかよろしくお願い致します。

以前に『星を追う子ども』は(新海作品の中では)見なくてもよい作品と言われたことにずっと違和感を覚えていて(その人の新海作品の感想に非常に感動しており、この考察の直接的な動機となっているくらいでとても喜ばしいからこそより強く違和を感じております)、僕には新海誠作品がどう見えているのか、そしてそれは何故なのか考察するための第一歩として「『星を追う子ども』の位置付け」を云々したいと思っています。ただし、前提が誤っている可能性がとても高いため、それを調べることから始めたく考えていましたが、備忘録兼批判をしていただける場として本ブログを思いつきました。

メモ

新海誠作品の中で「初邂逅」が描かれたのは『星を追う子ども』が初めてであり、「初邂逅」シーンはその後の作品である『言の葉の庭』、『君の名は。』においても繰り返し描かれている。さらに、「初邂逅」の相手が「死」に近い状態であることが共通している。『君の名は。』では、既に過去に亡くなってすらいる相手との「初邂逅」から物語が出発するのである。

以上の事情を踏まえるのであれば、「初邂逅」シーンは、新海誠作品の中で一定の意味を与えられて描かれていると言う仮説を立てることができる。

また、『君の名は。』においては、「初邂逅」が2回行われていることが注目に値する。1回目の「初邂逅」は既に過去に亡くなっている相手との「初邂逅」であり、2回目の「初邂逅」は実際に生きている三葉との「初邂逅」である(※作品内での出来事を時系列おいて見直してみると、実は2回目の「初邂逅」(滝は中学生で三葉は高校生)こそが第1回目の「初邂逅」である)。

後者の「初邂逅」は新海誠作品では初めて描かれた2回目の「初邂逅」シーンであり、この「初邂逅」が、物語のクライマックスにおける滝と三葉の「再開」における感動を飛躍的に高めているのである。滝と三葉の「再開」は、本来はあり得なかった2回目(作品内の時系列だと1回目)の「初邂逅」の成就であるという点が重要なことなのである。

ところで、それとは対照的に『星を追う子ども』では「再開」は達成され得ないものとされる。本作品のキャッチフレーズも「さよならを知る旅」であった。

「さよなら」とは何なのだろうか?『君の名は。』で描かれた「再開」を真に味わうためには「初邂逅」の考察が必要である。

本稿では、この考察の第一歩として『星を追う子ども』における「初邂逅」の分析と「さよなら」の意味を明らかにすることを試みたい。