日々のまとめ

日々の出来事どもに対する処理が追いつかないので、ここで処理する。処理落ちしました(2017年2月10日現在)

夜中の錯乱メモ

結局はまだ過去を消化することができていないってお話し。そして、そのままどうやって現在を過ごしていこうかってお話し。

私たちは、何らかの問いを懐く。それを考えるのに何らかの形で歴史に頼る。何故だろうか?一人で考えていてもどこまで行着けるかはたかが知れているからだろう。

ということは、裏を返せば、私たちが何かしらを考えるのに歴史を頼る動機には、自身の考えが、より遠くまで行着けるようにしたいという望みがある。

ここで或る矛盾が引き起こされるように思われる。それは、過去から現在まで沢山の人々が、いくつかのトピックに分けることができる程に整理してもろもろの問いを考えてきたのだから、そこに私の問いは最早必要ないのではないかという矛盾だ?

詳しく言えば、歴史においては、どのような問いを提起するかを含めた「問い方」も一緒に洗練されてきたはずだ。だから、私の問いは歴史の問うてきた問いに同化しなければならないのではないか?同化するということは、私の問いは最早不要なのではないか?だって、歴史の上にはもう問いが乗せられているではないか。ならば私はそれを改良作業にだけ従事していればよいではないか、という自問が生じる。さらには、私が考える必要すらないのではないか?だって歴史は進んで行きかねない。

この自問は、自身の問いが問うている内容すなわち考えられるべき内容が歴史的正当性を与えられないにも関わらず「歴史」に頼るべき問いとして存在してしまっているという矛盾した状況から生じる。

在るべき歴史との断絶によって、拠り所であるはずの「歴史」を喪失してしまった私の問いは、消えてしまうしかないのだろうか?それとも、歴史を虚仮にして私の問いを考え詰めるべきだろうか?

ここで、こう問い返したらどうだろうか。「在るべき歴史」とは何なのだろうか?それは、私の思考を受容しない狭量なものであるべきなのだろうか?

ところで、無から生まれる思考がありえないとすれば、思考は、経験すなわち過去からの影響によって育まれるものだ。過去を経験するには、物であれ言葉であれ、何らかの形で現在に遺された存在を経験することによるはずだ。それが思考である限りで問いですらもそのはずだ。

ならば、過去とは思考にとって望みうる限り最高の恩恵であるはずであり、そのような過去を体系的に把握した「歴史」もまた恩恵でありうるはすである。いや、そうであるべきですらある。過去が恩恵であるならば、恩恵100%で作られたのが理想の「歴史」であるはずでだからだ。

「在るべき歴史」とは私の思考の恩恵となる歴史なのだ。

では、先程の矛盾に戻ろう。「私」が変わるべきなのか?それとも「歴史」が変わるべきなのか?

「歴史」が、基本的には事実の集積を体系的に解釈したものであると言えるならば、それは①事実の真偽に関する変更、②解釈の観点によるその全体像の変更の二つの仕方でしか変更されるべきではないはずだ。

となると、解釈の観点となる「私」の方が、思考を変更するべきなのだろうか?

そうだろう。しかし、変更はどのように行われるべきなのであろうか?

現在が、過去からの恩恵である遺物そのものなのだとすれば、私の思考すらも(直接には遺らないものの、)そうであるはずだ。だから、それが変更ないし変化するとすれば、それは抵抗の無い変化でなければならないはずだ。

思考の抵抗とは「納得のいかなさ」だろう。だから、思考の「納得」が、その変更には伴わなければならない。だから、「納得」の伴わない過去は未だ「恩恵」ではない。

ところで、「納得」は何から生起してくるのだろうか?それもまた現在に存在するものであれば、「恩恵」からであるはずだ。そして、それは思考において生じるのだから、思考と未だ「恩恵」となっていない過去との接触から生じてくるはずだ。

では、思考にとって未だ「恩恵」でない過去は、思考とってどのように存在しているのであろうか?それは「了解」されるという仕方で存在している。思考において、「恩恵」である過去は「納得」されて存在し、「恩恵」でない過去は「了解」だけされて「納得」はされずに存在している。

喩えるならば、栄養は、それを消化できる身体の仕組みがある限りで栄養足りうる。臓器が、「了解」した食物を実際に消化することで初めて、食物は栄養となるのだ。同様に、思考において、「恩恵」は、それが「了解」され、「納得」が無ければそれを思考と接触させ続けることにより「納得」されて初めて、「恩恵」となることができるのだ。

この過程が経験だ。

結論しよう。「歴史」ではなく「私」の方が変わるべきだとしても、「在るべき歴史」が私にとって「恩恵」でなければいけない以上、「私」は現状の「歴史」を「了解」しなければならない。そして変更は、「納得」できるまで、それを構成する過去の諸事実及びそれを編集し体系にまとめている他人の思考を経験し、そこから「恩恵」を汲み取り続けた末の変更でなければならない。