日々のまとめ

日々の出来事どもに対する処理が追いつかないので、ここで処理する。処理落ちしました(2017年2月10日現在)

不便だ

メモ

子どもの頃に磁石の同極同士をくっ付けることに失敗し、挫折したあの時から、自分は結婚に失敗し続けている(比喩です)。同じ構図は何回も、それが日常になるくらいに反復し続けてきた。ここ数年は、この構図から脱け出すための別の構図を求める側面が強く表れてきていると思う。それは、「違う言語を手に入れなければならない」等と自分に語らせるような確信に由来するという自覚が強まってきたことと並行している。このような結婚願望が僕にはある。

ところが、この願いは矛盾を含んでいる。なぜなら、それを願うためには根源的なコミュニケーションの形式(「語るー聴き取る」という構図)に従わなければならないからである。

「語るー聴き取る」という構図から脱け出したがることは、その構図の中でしか行えないのである。これが私の結婚願望が矛盾を含んでいることの意味である。

それにしてもなぜ私は、磁石の同極同士をくっ付けたいと思ったのだろうか?私は何に抗ったのか?まるで、「私から言語が奪われてしまう」という妄想があるみたいだ。私は、磁石の同極同士をくっ付けるという不可能な事を可能にしようとすることで、言語を持たない対象に言語を与えようとしていたのではないか?不可能事を可能にすることを通して、神となり、自身から言語が奪い去られるという不安を解消しようとしていたのではないか?保育園の時、初恋をしたが、彼女の足に毛が生えていることを理由に嫌いになった。毛が奪われた言語のコレクションに見えたから(?)。

こうやって自分勝手に妄想するのもよろしくないなあと思う。別に何か病気じみたものが表れているわけでもないのに(いやでもまさにそのことこそが不安なんだけど!)。この不安は何?

ああでも今はそんなことよりもこの身の行く末を案じることが必要だと言われるはずだ(このような真っ当な意見を自分の意見として意志することにとても抵抗を感じる。不便だ)。

レポートを書く

 いつもとある先生は、論文の序論には、「文献学的に明らかにする」を使うようにと口を酸っぱくして指導してくださります。今回のレポートは文献学的には書いていなかった(しおそらく学術的な文章にもなったいなかった)ので、使いませんでした。「文献学的に」。
 一夜ないし数日で書いちゃう付け焼き刃の「レポート」では、調べる時間がそれなりに必要な文献学的な努力をし難いように思われます。異なる文献同士に書いてあるkと同士を突き合わせてその間にどんな関係が見て取れるかを考察するのにはそれなりに時間がかかりますよねそうですよね。文献学やってる大学生は大変だろうなあ・・・・・・

泣きそう

泣きそうになると、誰のために泣いていいのか、いつも分からなくなる。

自分の悲しみを、悲もうとすると、その感覚は、他人の悲しみを悲しもうとする感覚と同じものになってしまって、ついには為しえない。

このことに気づくと、心の内容(たとえば悲しみ)というものは、たまたまこの自分という場所で起こっているだけなのだというような話の方がより本当らしく感じられてくる。

初めての読書会

 今月末に初めての読書会がある。哲学の本(哲学の本って言い方、なんだか可笑しくならない?)を読む。身の周りに哲学に興味を持つ人が居ないので、その手の人(こういうふうに一括りにしてしまう事はよくない事だと思う)との初邂逅である。どきどきだ。

 「哲学の問題」って言われるときの「哲学」って何を指しているのかピンと来ない。だから自分が哲学しているのかどうかも怪しいと考えてしまう。自分の参加がもしかしたら迷惑になってしまうかもしれないと不安になってくる。でも行ってみたい。
 

「成長」について

 昔から「成長」という言葉にピンと来ない。たぶん、誰かが僕に語りかける「成長したね」という言葉は、単に相手の持っているある一つ以上の軸を持った世界観(大人―子ども?)に、僕を再度位置づけ直す作業が終了したことを示していたり、単なる社交辞令であったり、自然の摂理が正常に働いていることを確認したりする言葉であったことを子ども心ながら感じていたのだろう。なんというか、他人が口にする「成長」という言葉が、僕の中で意味を持たないような気がしたのだ。もしかしたら、「成長」という言葉の本来の意味は、自分に対してしか使えないものなのかもしれない。その意味では、「大人になったね」なんていう言葉は意味がよく分かる。ある世界観が直接に言葉に表れているからだ。ひょっとすると、「成長」という言葉は、ある世界観の隠れ蓑だったりしないだろうか。いや、もしかしたら、蓑の中には何も入っていないのかもしれない。うーんもやもやする。

現状整理(2)

 近頃は屋内や人の多い場所に居たりすると何だか落ち着かない。感覚はまた違うんだけど高校の頃に戻ったみたいだ。あの頃は、自分がどんな表情をしているのかも分からずに登下校をしていた。本当はカウンセリングの一つや二つ受けなくちゃならなかったんだろうけど、親はそういうのを知らないのに加えて少し差別的な見方をしていたし、教師にも勧められたことはなかった。家の高校が生徒に対して特別に受動的な態度をとっているのかどうかは知らない。僕はなんなんだろうか。自分で自分を定義できないと落ち着かない。ゆらゆらする感覚。
 明確におかしいと判断を下したのは、一週間くらい前のことだ。信頼できる(僕に対して不信なことをまったくしてこなかったという意味で)相手を疑わしいと断じそうになっている自分に気づいた。夜道を歩くとき頻りに振り返るようになった。妄想が発芽しかけているような感覚。妄想の妄想。それって妄想をしているとは言えないのでは、と反論することは可能だし実際に僕もそうしようとしたけれど、妄想を妄想だと断じても断じきれない。何かしこりのように残る不安定感がある。妄想の妄想を生きてしまっているって表現することができる現状。
 しばらくの間休息をとりたいなんて感じてはいるものの、経済的な理由で無理。まあ仕方ないよね。耐えられなくなったら何もかも投げ出すことにしておくことで少しでも安心を得ることを図る。
 姉も浪人した時に鬱病になったらしいけど、両親は果たして何を感じたのだろうか。特に母親。この件に関しては、実はちょっと嫌な気持ちがある。僕がたまたま鬱病という症状を示さなかっただけで精神を蝕まれていた(めちゃくちゃ髪を抜く等)高校時代があったから。理由を聞き入れてもらえるとは思わなかったのでそれを言わずに休みたい旨を申告した僕の首をヒステリックに絞めて暴力という強みと自分の精神の弱みを見せることで高校へと行くように僕を促した母親のことはたぶん一生許せないだろう。本人はあれを正しい行動だと思っているのだからより一層許せなさが募る。
 こういう愚痴が無意味なことだって言うのが、僕には飲み込めないらしい。
 現状整理ニ失敗セリ。